voyaju’s blog

書籍の全編紹介です

(7)悟りの風に吹かれて

悟り

 

  「道理を知る」とは、「慈悲」と「義」がはっきりわかることです。慈悲は寛容、母の愛です。全てを包含する心。それは宇宙の横軸。そして義は、人としての踏み歩いていく道です。つまり、恩義、忠義、正義の心。それは宇宙の縦軸。

 

 縦軸があって、横軸が活きてきます。正義が抜け落ちていれば、一見それが優しさに見えても、偏った愛へ化けてしまい、または、偽りの愛へと堕(お)ちてしまい、混乱を招く元凶となっていきます。例えるならば、正義を正面に据(す)えない優しさだけで子供を育てると、つまり甘やかしだけで子供を育ててしまうと、ただの使い物にならない餓鬼となってしまうということです。

 

 私は、座禅瞑想を日夜重ねる中で、少しずつ「気づき」を獲得していきました。過去の、どの偉大な覚者も同様の方法を用いたのだと思います。30代前半から中盤に差し掛かり、命とは何かを、神とは何かを、悟りとは何かを知りたいという溢れる思いを止めることが出来ず、日夜の座禅瞑想に導かれたのだと思います。

 

 サンスクリット語で、「気づき」は「悟り」と訳されます。日夜の座禅瞑想、そして天の意思を知りたいと勤勉にあり続ける生活が、私に毎日何かしらの「気づき」をもたらし始めました。いつも神とは何かを問い続けた。出来うるならば、遭遇(そうぐう)したい……

 この生活態度こそが、誰もが歩むことが出来る、精神を培う(つちかう)安全な道です。古より続く「悟りの道」とも言い換えることが出来ます。

 

 修験僧(しゅげんそう)のように、山奥に籠(こも)って断食や滝行などの肉体行(にくたいぎょう)で神や神通力(じんつうりき)を求めた方々もいらっしゃいます。体を死の淵へと追い込み、意識と肉体の境界を失ってしまうような状態を作って(時に生死の境を彷徨(さまよ)うことで)魂の世界に触れることは出来ます。臨死体験もその一つでしょう。しかし、これは誰もが歩ける道ではありません。おそらくほとんどの方が失敗してきたのではないでしょうか?私はそう疑っています。お釈迦様が、肉体行を捨て、座禅に切り替えて悟りを得たように、天が望む精神向上の道ではありません。また、生まれつき霊感の強い方もいらっしゃいます。これも、前世での荒業の結果としてのものだと考えています。

 

 次元の違う世界と繋がるということは、神や仏という善なる存在と、悪魔や狐といった悪なる存在があなたにアクセスしてくるということですから、悪魔の誘惑、それはエゴをくすぐる詐術のような囁きですが、そのおかしさを見抜き、毅然(きぜん)として「悪魔よ、去れ」と言い放つことが出来るところまで心を磨き切っていなければいけません。つまり己のエゴ(不安、恐れ、転じて欲)に、負けない心を養っていなければなりません。

 

 己のエゴに負け、欲をふくらまし、悪神のささやきに負けた方を、たくさん目にしてきました。まずは、精神を培う(つちかう)ための正しい求道(ぐどう)の道を知ることが大切です。そしてそれは、時を要する道です。今日、明日に、あなたの心が玉のように磨かれる方法は存在しないからです。

 

 話を戻します。座禅瞑想を始めて10年近い歳月が流れていたと思います。いつもの夜の座禅瞑想をしていると、一つの「気づき」を得ました。それは、「正義」についてでした。ずっと探し求めていた何かが、ストンと腹落ちしたような気持ちになったことを記憶しています。視界が開けて、霧が晴れた。

 

 正義について考えたいたわけではありませんが、その瞑想の中で、「正義」を捕(つか)まえたことで、愛というぼんやりとして説明しづらいものが、私の中で輪郭を表しました。それが、私の数多い小さな気づき体験とは全く次元の違う、大きな気づき体験だと言えます。

 

 「死刑制度」について話しておきます。法治社会の日本でも、長く死刑について賛否両論があります。あなたは「死刑制度」に賛成でしょうか?反対でしょうか?

 

 結論から話せば、正義という宇宙の精神の縦軸から鑑みると、死刑制度は必要なことになります。人は、肉体に「精神」と「心」と「魂」を宿す存在です。そして、「精神」は神にも、そして悪にもなり得る生き物です。万が一、欲心によって悪になり切ってしまった精神は、残念ながら、慈悲や正義を理解出来ない人間以下の獣へと成り下がってしまいます。良心のかけらも見当たらず、たとえ無辜(むこ)なる子供を殺害しても平然と笑っていられるような化け物。反省を失った精神は、もう人としてこの世界を生きる資格はありません。

 

 正義は、価値観ではありません。神の心であり、この世界に厳然とあるものです。だから、誰かと議論してぶつかるようなものではありません。正義とは、自分さえよければいいという未熟な精神を、正す心のことを指します。

 

 阿弥陀は、慈悲と正義です。

 神は、調和と循環です。

 キリスト意識は、人の喜びが我が喜び、人の悲しみが悲しみであるワンネス意識です。

 

 心底、相手の立場を思えるようになることが精神の向上に他なりません。

 

 そして、「悟り」とは、自他一体の境地から湧き出てくる想いそのものです。倒れた人を見れば、手を差し伸べ、悲痛な悲しみにくれる人には寄り添い、未来ある子供達には優しい眼差しを注ぎ、自然が汚れていく姿に胸を痛め、立ち上がる人です。

 

 「悟り」とは「志」です。それは、遠くにあるのではなく、あなたの足元に転がっているものです。

 

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