心の階段(1)
心には成長のステージがあります。魂は生まれ変わりをし、命の体験を重ね、悲しみと喜びを覚え、愛を知り、愛を深めていきます。
空海という日本が生んだ怪僧がいます。彼は、奈良時代末期に生まれ、遣唐使として唐に渡り、恵果和尚(けいかおしょう)と出会い、真言密教を受け継いで日本に帰国しました。彼は『十住心論』という著作の中で、人間の心のステージを10段階に分けました。
「動物のような心」が1段目、次に「童のような心」……そして9段階目が「華厳の境地」、最後は、「真言密教の境地」と説きました。空海には理解出来ても、言葉も難しく、仏教の知識の積み上げもない現代に生きる私には、ほとんど理解出来ませんでした。ですが、心というもの、意識というものを考える上で、大変参考になりました。
また、本山博さんという、大正14年、香川県に生まれたヨガ研究者がいらっしゃいます。(偶然ですが、空海も香川に生まれたと言われています。)平成27年に亡くなられたようですが、ヨガや宗教や東洋医学や、気やチャクラの研究などに取り組み、海外でも高い評価を得られた方です。彼の著作、『超感覚的なものとその世界』では、心のステージを3段階に分けて説明しています。そこでは、自我と神意識の対立から、(自我を超克した先での)神意識までの一致までが描かれています。
私が経験していることを述べさせていただきます。私は、クンダリーニ体験をしています。これが起きて、私の場合は心の体にある7つのチャクラが全開となり、気の世界を感知できるようになりました。チャクラとは、心の体にある気の通り道の交差点のことです。気の世界とは、肉体を超えた次元のことです。
こうした自身の経験があって、そしてまた瞑想中の直観もあり、チャクラというものは、心の成長に伴って、一つ一つ大きく綺麗に回転していくことがわかりましたので、心の階段は何段階ありますか?と人から問われれば、チャクラに応じた7段階の心のステージがあると答えます。
7つの段階とは、体を大切にすること、勇気心、感情の制御、慈悲と正義の心、真っ直ぐに表現する力、直観力、そして、感謝する心を、それぞれ鍛え上げることですが、また、全ての項目は、繋がりあって成長し階段を登るともいえますから、実際は、はっきりと分けて考えることは難しく、心のステージは結局、一つの長い坂道と伝えた方が正解に近いのかもしれません。
話を進めます。チャクラが全開となり、さらに神の心と私の心のトンネルの開通が進むと、本山さんが述べた神意識との一致の段階、つまり最後のステージにまで到達していきます。精神世界の言葉では、神に出会うとも、ワンネスの体験があると言われているかと思います。私に限っていえば、とても劇的な体験とは言えませんが、瞑想中、静かに神に出会いました。正直に言えば、振り返ると、あれが神だったのだろう……という揺るぎのない確信が残っているという感じです。
真っ白い靄(もや)のかかる石畳の上に、ユニコーンのような馬が数頭います。歩いたり、跳ね回ったりしていました。(馬? ん? ユニコーンかな……)と考えをめぐらせていると、真っ白い靄の中から、ぬっと、何者かが大きな顔を出してきました。顔だけです。あとは全部が靄に覆われていました。私の体の何百倍もある大きな顔です。そのお顔は、西洋風で鼻が高く、目がクリッとしていてください、愛らしい顔つきをしています。微笑を讃えて、興味深そうに、こちらを見つめています。(ああ、大きい顔だなあ)と思ってしばらくお顔を眺めていました。何の会話も交わしていませんが、好奇心が強そうで、やんちゃな感じがする優しく大きな眼差しで、ずっと私を肯定してくれている印象でした。瞳は小さかったな……。そして、しばらくすると、また靄の奥にすうっと消えていきました。それで、出会いは終わりました。後日どなたかの書籍の中で、神は人によって顔や形を変えるというような記載がありました。真偽はさておいて、神とはもともと無相無形の意識だと感じます。人智ではかれるものではありませんので、そこは空想を楽しめばいいかと思っています。
その後の変化について書きたいと思います。そのような不思議なお顔との出会いの前まで、私はチャネリングに苦しんでいました。気の世界が分かるとは、気の世界の住人と交流をするということでもあります。そこには、神仏もいれば、狐も、悪魔も、死んだ霊もいます。目に見えないそれらの存在から、アクセスされるようになっていきます。チャネリングは、個人差があると思いますが、簡潔に申すと、言葉が聞こえてくるわけではありません。そのほとんどは、私の場合、体感を通じてのコミュニケーションとなります。サードアイと呼ばれる第6チャクラや、頭頂部などの感覚によるコミュニケーションが当時は多かったことを記憶しています。また同時にそれらは首のあたりにビリビリとした気を送ってきていました。
善なる神と悪なる神は、区別するのはおそらく大変難易度が高いことです。善神も悪神も神であることには変わりはないからです。ですから、初心者の私は、チャネリング情報を鵜呑みにして、人に迷惑をかけることがありました。狐憑きの状態で人生の選択を委ねていくと、どうなるのか?そこには、あらゆる不調和が待っています。それもジリジリと時間をかけて追い込まれて、気づいた時には、人間関係の不和、仕事の行き詰まり、体の不調、借金などの落とし穴にはまってしまっています。後日分かったことですが、この話は、聖書にも、お釈迦様のお話にも出てきています。キリストはサタンに出会い、釈尊は降魔(ごうま)にあいます。お二人とも人々へ救済を述べ伝え始める一歩手前の段階で、悪魔の誘惑にあい、跳ね除けていきました。
私の場合は、キリストや、釈迦のように誘惑に揺らぐことなく退散させるということにはならず、一旦は完全に悪に飲まれてしまい、大切な友人に迷惑をかけてしまいました。そこで、私は、もう二度とチャネリングをして事を進めるのは止めようと決意しました。
しかし、悪魔を退けた後、神と出会い、我が心のトンネルの浄化が進んだ感覚が芽生えると、つまり、天までトンネルが、どーんと一直線の光のパイプのような状態になると、大きな変化が起きていきました。そこに至ると、別人格の何者かが、自分の体を覆うようになったのです。
例えるならそれは、透明な着ぐるみをきている感じです。いつも私の体の周囲に、別人格の透明な何者かがいます。そして、この目には見えない別人格の何者かが、求めれば私の生活をサポートしていくようになります。外からのチャネリングは、どのような存在がアクセスしてくるのかは、見に見えるわけではないのでよくわかりません。しかし、この自分の体を覆った何者かによるアクセスに限っては、情報の出処は明確です。毎日をともに過ごすことで、私を騙すことのない信用のおける存在だということが、時間はかかりますがわかっていきました。
この状態を仏教界では、「即身成仏」としてきたのではないかと思っています。これを空海は体験し、多くの弟子に伝えていたのだろうと考えています。つまり、この世で、生き仏になれると……
これは仏教に限ったことではなく、それぞれの宗教で同様にぼんやり語られています。キリスト教はキリスト者とし、儒教は天神合一だとし、神道では現人神という言葉になります。
今現在、「ハイヤーセルフ一体になる」という言葉は、精神世界で語られることが多くなってきました。これも成仏という言葉と同義と考えています。
別人格の何かが、何者であっても、どのような呼び方でも構いませんが、この何者かは、慈悲と正義を知るものには違いありません。そして、智慧の宝庫とも呼べるし、人生のナビゲーターとも言い換えることが出来る存在です。あなたの体のこと、あなたの読むべき本、知らない街の食堂のことや電車の時間など身近なことから、国のカルマのことや、命のことなど……。求めれば、遅すぎず、そして早すぎることのないタイミングで、過不足なく見事に解を与えてくれる存在です。
その示唆の仕方はさまざまですが、一つあげるとすれば、私の意志とは関係なく、私の手足や首を動かします。ハンドルを切って道を示唆し、書店では、本やDVDへ手を伸ばしてカゴに入れ、ランチをするお店を探していると、私の顔を動かして、情報を与えてくれます。
そして例えば、彼が選ぶ入ったことのないレストランや食堂はいつも良心的なオーナーや店員がいるお店で、その度に(人間性をきちんと見て、神様は縁づくりをバックアップするんだな)といつも驚きますし、感心してしまいます。
誤解のないように伝えますが、たとえハイヤーセルフを纏った(まとった)としても、あなたの自由な意志が削がれることは決してありません。そして、全ての選択を任せ切ってしまっても、四苦八苦がなくなることもありません。むしろ、新しいチャレンジへと促され、精神的なきつい筋トレをさせられることの方が多いのかもしれません。出口の見えない迷路に入ることもしばしばです。しかし、そうであってもこの何者かをナビとして信じるに足ると言い切れるのは、その苦しい体験も乗り切ってみると、必ず己の器が大きくなっていることがわかりますし、己の天命を果たしていくための必要な肥やしだったのだと後から気づくためです。
「それ」はこのように、あなたの命の自己実現を願うどこまでも優しく厳しい父母のような存在です。しかし、禅の言葉にある「不動心」は、このように何者かを纏った状態から生まれてきます。なぜなら、全ての出来事は、因果から起こっていることがわかり、また神はいつでも自由にその因果に介入することがわかり、その創造力は山をも動かすほどのもので、人間の心を通じてその創造性を発揮していくことがわかってくるからです。つまり、人生の全ては神のみ手の上の出来事であり、且つ神の子である己の存在が神の如く大きいということも理解できてくるのです。
心の階段を登り切ったとしても、そのさきも変わらず、人は学び、体験と成長を続けることに何ら変わりはありません。また、油断するとエゴから生まれる欲心に飲み込まれてしまうこともあるでしょう。もしかしたら、この先にもまだ見ぬ心の階段があるのかもしれませんが、それならば独り道を切り開くのみです。
しかし、私の経験は、必要な方には全て伝えていこうと思っています。わかったことは全てです。誤解も偏見も生まれることになるかもしれませんが、それを恐れたり、遠慮したりして隠すことは、おそらく私にはできません。そのような生き方は選べません。シェアするからこそ、周囲の人全ての可能性が膨らみます。後に続く方々のためにとって、大切なことであれば、必ず伝え、残していこうと思います。ここまで育ててくれた天への恩返しを果たしていくつもりです。
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