voyaju’s blog

書籍の全編紹介です

(14)悟りの風に吹かれて

心の階段(1)

 

 心には成長のステージがあります。魂は生まれ変わりをし、命の体験を重ね、悲しみと喜びを覚え、愛を知り、愛を深めていきます。

 

 空海という日本が生んだ怪僧がいます。彼は、奈良時代末期に生まれ、遣唐使として唐に渡り、恵果和尚(けいかおしょう)と出会い、真言密教を受け継いで日本に帰国しました。彼は『十住心論』という著作の中で、人間の心のステージを10段階に分けました。

 

 「動物のような心」が1段目、次に「童のような心」……そして9段階目が「華厳の境地」、最後は、「真言密教の境地」と説きました。空海には理解出来ても、言葉も難しく、仏教の知識の積み上げもない現代に生きる私には、ほとんど理解出来ませんでした。ですが、心というもの、意識というものを考える上で、大変参考になりました。

 

 また、本山博さんという、大正14年、香川県に生まれたヨガ研究者がいらっしゃいます。(偶然ですが、空海も香川に生まれたと言われています。)平成27年に亡くなられたようですが、ヨガや宗教や東洋医学や、気やチャクラの研究などに取り組み、海外でも高い評価を得られた方です。彼の著作、『超感覚的なものとその世界』では、心のステージを3段階に分けて説明しています。そこでは、自我と神意識の対立から、(自我を超克した先での)神意識までの一致までが描かれています。

 

 私が経験していることを述べさせていただきます。私は、クンダリーニ体験をしています。これが起きて、私の場合は心の体にある7つのチャクラが全開となり、気の世界を感知できるようになりました。チャクラとは、心の体にある気の通り道の交差点のことです。気の世界とは、肉体を超えた次元のことです。

 こうした自身の経験があって、そしてまた瞑想中の直観もあり、チャクラというものは、心の成長に伴って、一つ一つ大きく綺麗に回転していくことがわかりましたので、心の階段は何段階ありますか?と人から問われれば、チャクラに応じた7段階の心のステージがあると答えます。

 7つの段階とは、体を大切にすること、勇気心、感情の制御、慈悲と正義の心、真っ直ぐに表現する力、直観力、そして、感謝する心を、それぞれ鍛え上げることですが、また、全ての項目は、繋がりあって成長し階段を登るともいえますから、実際は、はっきりと分けて考えることは難しく、心のステージは結局、一つの長い坂道と伝えた方が正解に近いのかもしれません。

 

 話を進めます。チャクラが全開となり、さらに神の心と私の心のトンネルの開通が進むと、本山さんが述べた神意識との一致の段階、つまり最後のステージにまで到達していきます。精神世界の言葉では、神に出会うとも、ワンネスの体験があると言われているかと思います。私に限っていえば、とても劇的な体験とは言えませんが、瞑想中、静かに神に出会いました。正直に言えば、振り返ると、あれが神だったのだろう……という揺るぎのない確信が残っているという感じです。

 

 真っ白い靄(もや)のかかる石畳の上に、ユニコーンのような馬が数頭います。歩いたり、跳ね回ったりしていました。(馬? ん? ユニコーンかな……)と考えをめぐらせていると、真っ白い靄の中から、ぬっと、何者かが大きな顔を出してきました。顔だけです。あとは全部が靄に覆われていました。私の体の何百倍もある大きな顔です。そのお顔は、西洋風で鼻が高く、目がクリッとしていてください、愛らしい顔つきをしています。微笑を讃えて、興味深そうに、こちらを見つめています。(ああ、大きい顔だなあ)と思ってしばらくお顔を眺めていました。何の会話も交わしていませんが、好奇心が強そうで、やんちゃな感じがする優しく大きな眼差しで、ずっと私を肯定してくれている印象でした。瞳は小さかったな……。そして、しばらくすると、また靄の奥にすうっと消えていきました。それで、出会いは終わりました。後日どなたかの書籍の中で、神は人によって顔や形を変えるというような記載がありました。真偽はさておいて、神とはもともと無相無形の意識だと感じます。人智ではかれるものではありませんので、そこは空想を楽しめばいいかと思っています。

 

 その後の変化について書きたいと思います。そのような不思議なお顔との出会いの前まで、私はチャネリングに苦しんでいました。気の世界が分かるとは、気の世界の住人と交流をするということでもあります。そこには、神仏もいれば、狐も、悪魔も、死んだ霊もいます。目に見えないそれらの存在から、アクセスされるようになっていきます。チャネリングは、個人差があると思いますが、簡潔に申すと、言葉が聞こえてくるわけではありません。そのほとんどは、私の場合、体感を通じてのコミュニケーションとなります。サードアイと呼ばれる第6チャクラや、頭頂部などの感覚によるコミュニケーションが当時は多かったことを記憶しています。また同時にそれらは首のあたりにビリビリとした気を送ってきていました。

 

善なる神と悪なる神は、区別するのはおそらく大変難易度が高いことです。善神も悪神も神であることには変わりはないからです。ですから、初心者の私は、チャネリング情報を鵜呑みにして、人に迷惑をかけることがありました。狐憑きの状態で人生の選択を委ねていくと、どうなるのか?そこには、あらゆる不調和が待っています。それもジリジリと時間をかけて追い込まれて、気づいた時には、人間関係の不和、仕事の行き詰まり、体の不調、借金などの落とし穴にはまってしまっています。後日分かったことですが、この話は、聖書にも、お釈迦様のお話にも出てきています。キリストはサタンに出会い、釈尊は降魔(ごうま)にあいます。お二人とも人々へ救済を述べ伝え始める一歩手前の段階で、悪魔の誘惑にあい、跳ね除けていきました。

 

 私の場合は、キリストや、釈迦のように誘惑に揺らぐことなく退散させるということにはならず、一旦は完全に悪に飲まれてしまい、大切な友人に迷惑をかけてしまいました。そこで、私は、もう二度とチャネリングをして事を進めるのは止めようと決意しました。

 

 しかし、悪魔を退けた後、神と出会い、我が心のトンネルの浄化が進んだ感覚が芽生えると、つまり、天までトンネルが、どーんと一直線の光のパイプのような状態になると、大きな変化が起きていきました。そこに至ると、別人格の何者かが、自分の体を覆うようになったのです。

 

 例えるならそれは、透明な着ぐるみをきている感じです。いつも私の体の周囲に、別人格の透明な何者かがいます。そして、この目には見えない別人格の何者かが、求めれば私の生活をサポートしていくようになります。外からのチャネリングは、どのような存在がアクセスしてくるのかは、見に見えるわけではないのでよくわかりません。しかし、この自分の体を覆った何者かによるアクセスに限っては、情報の出処は明確です。毎日をともに過ごすことで、私を騙すことのない信用のおける存在だということが、時間はかかりますがわかっていきました。

 

 この状態を仏教界では、「即身成仏」としてきたのではないかと思っています。これを空海は体験し、多くの弟子に伝えていたのだろうと考えています。つまり、この世で、生き仏になれると……

 これは仏教に限ったことではなく、それぞれの宗教で同様にぼんやり語られています。キリスト教キリスト者とし、儒教は天神合一だとし、神道では現人神という言葉になります。

 

 今現在、「ハイヤーセルフ一体になる」という言葉は、精神世界で語られることが多くなってきました。これも成仏という言葉と同義と考えています。

 

 別人格の何かが、何者であっても、どのような呼び方でも構いませんが、この何者かは、慈悲と正義を知るものには違いありません。そして、智慧の宝庫とも呼べるし、人生のナビゲーターとも言い換えることが出来る存在です。あなたの体のこと、あなたの読むべき本、知らない街の食堂のことや電車の時間など身近なことから、国のカルマのことや、命のことなど……。求めれば、遅すぎず、そして早すぎることのないタイミングで、過不足なく見事に解を与えてくれる存在です。

 

 その示唆の仕方はさまざまですが、一つあげるとすれば、私の意志とは関係なく、私の手足や首を動かします。ハンドルを切って道を示唆し、書店では、本やDVDへ手を伸ばしてカゴに入れ、ランチをするお店を探していると、私の顔を動かして、情報を与えてくれます。

 そして例えば、彼が選ぶ入ったことのないレストランや食堂はいつも良心的なオーナーや店員がいるお店で、その度に(人間性をきちんと見て、神様は縁づくりをバックアップするんだな)といつも驚きますし、感心してしまいます。

 

 誤解のないように伝えますが、たとえハイヤーセルフを纏った(まとった)としても、あなたの自由な意志が削がれることは決してありません。そして、全ての選択を任せ切ってしまっても、四苦八苦がなくなることもありません。むしろ、新しいチャレンジへと促され、精神的なきつい筋トレをさせられることの方が多いのかもしれません。出口の見えない迷路に入ることもしばしばです。しかし、そうであってもこの何者かをナビとして信じるに足ると言い切れるのは、その苦しい体験も乗り切ってみると、必ず己の器が大きくなっていることがわかりますし、己の天命を果たしていくための必要な肥やしだったのだと後から気づくためです。

 

 「それ」はこのように、あなたの命の自己実現を願うどこまでも優しく厳しい父母のような存在です。しかし、禅の言葉にある「不動心」は、このように何者かを纏った状態から生まれてきます。なぜなら、全ての出来事は、因果から起こっていることがわかり、また神はいつでも自由にその因果に介入することがわかり、その創造力は山をも動かすほどのもので、人間の心を通じてその創造性を発揮していくことがわかってくるからです。つまり、人生の全ては神のみ手の上の出来事であり、且つ神の子である己の存在が神の如く大きいということも理解できてくるのです。

 

 心の階段を登り切ったとしても、そのさきも変わらず、人は学び、体験と成長を続けることに何ら変わりはありません。また、油断するとエゴから生まれる欲心に飲み込まれてしまうこともあるでしょう。もしかしたら、この先にもまだ見ぬ心の階段があるのかもしれませんが、それならば独り道を切り開くのみです。

 しかし、私の経験は、必要な方には全て伝えていこうと思っています。わかったことは全てです。誤解も偏見も生まれることになるかもしれませんが、それを恐れたり、遠慮したりして隠すことは、おそらく私にはできません。そのような生き方は選べません。シェアするからこそ、周囲の人全ての可能性が膨らみます。後に続く方々のためにとって、大切なことであれば、必ず伝え、残していこうと思います。ここまで育ててくれた天への恩返しを果たしていくつもりです。

 

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(13)悟りの風に吹かれて

会社や国のカルマ

 

 前章では、個人のカルマ(記録)のお話をしました。これは、人間にだけ当てはまるものではありません。例えば、会社のようなものを考えていただければわかるように、経済を戦争だと捉え、他から奪い続けた会社は、未来には、奪った分だけの、お金、時間、ご縁などのチャンスが消滅します。お金=時間=ご縁=エネルギーです。奪うとは、商品の質を落としても販売価格を下げないことや、下請け企業の利益を、力で吸い上げるなどのことです。

 

 反対に、お客様にサービスを尽くし、満足や喜び、感動を与えた対価として売り上げを捉えているのなら、善い商いだと言えます。正しさに実力が伴えば、断じて滅びません。

 

 神は、「調和と循環」という言葉へと置き換えることができます。そして調和と循環とは、「永遠性」です。だから、会社のあり方を、神に似せていくことで、息の長い繁栄を享受することが出来るということになります。

 

 少しカルマからは、話が逸れますが、会社での「調和と循環」について、一緒に考えてみたいと思います。「調和と循環」とは、自然の姿そのものでもありますね。「自然」は、「新陳代謝」とも言い換えることができます。だから、この4つのキーワード、「調和」「循環「自然」「新陳代謝」ある会社づくりに取り組むことで、神の似姿となって永続的に繰り返される実りを享受できます。

 

 いくつかあげてみたいと思います。

 まずは、社長も含めた社員間の仲の良さが大切です。先輩が後輩を苛(いじ)めるなど、意地悪をする文化がある会社は、お互いの情報の共有も、実務での協力もない状態です。会社を木に例えると、細胞間の水や栄養のやりとりが滞り、成長が止まることに等しい。そのような状態が長く続けば、必然、朽ちていきます。

 また例えば、「三方良し」という考え方が、自然の摂理にかなっています。そこには、循環があるからです。「売り手良し、買い手良し、世間良し」であるからこそ、調和が生まれます。自らが奪われない限り、未来において、自分の首が締められることはありません。

 適材適所も自然なことですね。適性を判断して人を配置することで、その者の

能力が開花します。花は紅、柳は緑と禅語にあるとおりです。

 当然ですが、公害を撒き散らすような製品を作って、利を稼げば、いつか必ず社会的精算を受けることになります。「わかっていても……」というのが、世の常ですが、利益は後からついてくるという考えを持ち、人事を尽くして天命を待つことが出来るような、清潔で、社会に尽くす気持ちが強い、そして何より自助努力のある会社が、そこに集う利害関係者の皆さんを幸せにしていきます。

 

 ここで、カルマ(記録)の話に戻ります。会社も、過去を精算していきます。善心よりの活動と、悪心からの活動をカルマ(記録)として、将来のいつかの時点で、必ず受け取っていきます。企業の善心とは何か?悪心とは何か?を企業経営者は、誠心誠意考えていきたいものです。社員がいれば、後ろには、必ずそのご家族がおります。成した活動の結果としての、果実であり、成功であり、幸せです。みんなの個性を活かし、幸せの実現を図っていくことが、経営者たる者の責任です。

 

 さて、次に国のカルマ(記録)について、考えてみたいです。建国以来の活動が、天にカルマとして記録されています。それは、未来のいつの日にか、善なる心の行いであっても、悪なる心の行いであっても、自らが与えたものと同じエネルギー、つまり苦しみの感情や、悲しみの感情をもたらすものとして、また反対に、真心を感じる有難いものとして受け取っていきます。

 

 例えば、侵略の歴史が、他国に対して残忍なものであれば、同程度の残忍さを味わうような何かの報いを受けるのは必然です。

 

 明治23年に、親善のために日本に立ち寄ったオスマントルコの船が、台風によって難波して、乗組員が海に投げ出された事件が起きました。和歌山県大島村樫野の村人たちが、総出で救助をし、救える命を救ったという有名なエルトゥールル号事件です。500名以上が亡くなった大事件ですが、村人の献身的な救助活動と、介抱により69名の命が助かりました。

 この事件により95年が過ぎて一つの奇跡が起きます。イランイラク戦争の勃発の際、脱出出来ず、イランに取り残された日本人215名。自衛隊も、民間の航空会社も救援機の派遣を見送るという異常事態に、トルコからの救援機2機が派遣されました。そして、全員の救出に成功。命を懸けた自国機派遣の理由は、エルトゥールル号事件での、当時のご恩を返したいというトルコ国民の気持ちでした。これは、やはりカルマの解消だと思います。

 

 国のカルマを考えるにあたって、皆さんには、特に近代史に注目していただきたいです。世界史を眺めてみると、ヨーロッパでは、中世の終わりから、長い宗教戦争が始まります。多くの血が流れました。終わると今度は、国家意識が芽生え、そして、国の欲望を満たすために、植民地を求めて世界へ進出していきます。それは、謀略と殺戮(さつりく)の歴史です。さらには、力をつけた国同士での覇権争いも激しくなっていきました。第一次世界大戦では、武器の開発も進み、軍人同士の戦いばかりではなく、一般市民も攻撃の対象とされ、街へ爆弾が落とされ大変な数の市民も犠牲になりました。

 

 それでも争いは終わらず、二度目の世界大戦が起こってしまいます。さらに、米国とソ連の覇権争いが起こり、世界各地で、戦争が繰り返されました。戦費が嵩(かさ)み、経済が行き詰まったソ連が崩壊してようやく冷戦が終わり、正解には束の間の平和が訪れたように見えましたが、覇権争いは水面下で続き、大国、小国ともにエゴを剥き出し(むきだし)にしてきました。特に大国アメリカの責任は大きく、力で中東の資源を狙い、宗教戦争、民族紛争に油を注ぎ、秩序の生まれない泥沼のカオスを創り出しています。

 

 皆さんには、今現在の世界が、その目にどう映っていますか?

 

 私の目には、過不足なく、カルマの精算がしっかり起きていると映っています。

 

 繰り返しになりますが、長く牧歌的な中世が終焉(しゅうえん)し、野心は目覚めました。産業革命が起こりエンジンのかかった植民地主義は、圧倒的な力で持って、弱いものから奪い始めます。それは、目を覆うばかりの悲惨な季節(とき)を刻みました。争いの数、悲しみの数、当事者となった国や地域の多さは、中世とは比較になりませんでした。そしてそれは、必ず精算される記録です。

 

 それを証明するかのように、私たちの身の周りには、ひっきりなしに、身の毛がよだつようなことが起きています。これを世紀末だとか、終末だ、と呼ぶのは間違っていて、世界各国が欲望で起こした争い、自分さえよければいいと、人を殺めてきた負の記録を、自ら受け取っているに過ぎません。また、自然から収奪し続けた結果としての災害を受け取っているに過ぎません。

 

 イギリスは、アヘンという麻薬を清国へ密売し、中毒者や死亡者を何千万人と生ませた挙句、取り締まりへ動いた清国政府に対して、今度は軍隊を派遣し、フランスと組み、またインドで傭兵(ようへい)を募(つの)り先鋒隊として使いながら、力で制圧していきました。

 非道です。アヘンによって多くの方の人生を狂わせ続け、利益を貪り続けた。それに便乗し、禿鷹(はげたか)のようなアメリカ、ロシアも、また群がっていきました。

 またアヘン密売自体は、アヘン戦争以前から、東アジアにおいて、オランダ、フランス、ポルトガルの財政上の支柱でした。収益さえあげられれば、人の命などどうでもよかったのです。事実、台湾などでも多くの命がアヘンによって失われています。

 

 善悪を問わずカルマは、必ず精算されていきます。今現在、中国武漢のウイルス研究所から、世界に漏れていってしまった新型コロナウイルスは、東アジアよりもイギリス、米国、ロシア、インド、ブラジルなどの西洋や南アジアでその猛威をふるっています。甚大な死者数も去ることながら、数多(あまた)の人々を目に見えない恐怖や不安に陥れている事実は、まるでアヘンという麻薬が、西洋人によってアジアにばら撒かれた史実にそっくりです。

 その性質も規模感も似ていて、さらに中国を震源としている事実を鑑みると、アヘンを売りつけてアジアを苛(いじ)めた欧米諸国の負の記録(カルマ)が、コロナウイルスの蔓延によって、精算されているのではないかと推理するのは、果たして私の邪推でしょうか?

 

 また、ヨーロッパ・アメリカの先進諸国は、今現在、合法不法を問わず、移民問題に直面しています。過去、暴力で世界の地域、部族、国を蹂躙(じゅうりん)し続け、富を得てきた国々が、数世紀を経た今現在、世界で一番弱い立場の難民の大量流入によって、国家をぐらぐらと揺り動かされてしまっていることは、単なる偶然でしょうか?強さではなく、弱さで国を壊すとは、人間にはとても書けないシナリオです。

 

 真理は、科学の進歩が追いついて、ようやく人にわかるように明らかにされていくものです。カルマの精算も、まだ立証出来ていない真理の一つかもしれませんが、しっかり考慮して、人類は、「終末」などという思考停止してしまう愚かな考えに嵌(は)まることなく、大道を外さずに国の歩みを律し続けていく必要があります。

 

 中国古典の「易経」にある言葉、「積善の家に余慶あり、不積善の家には必ず余殃(よおう)あり」という言葉を、特に噛み締めていきたいものです。国民の安寧は、これまでの「今」の決断の積み重ねであり、これからの「今」の決断の積み重ねにあるからです。

 

 

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(12)悟りの風に吹かれて

カルマについて

 

「カルマ」は、日本語では「業」と訳されます。これは、過去の行いの「記録」です。

 

 その「記録」は、善い心から為された行いと、悪い心から為された行いとに、分けることが出来ます。その一つ一つが天の貯蔵庫に蓄えられていきます。時が満ちれば、寄せては返す波のように、その「記録」をあなた自身が受け取ります。過去のあなたの「記録」を通じて、あなたは、必ず相手に与えた正負の気持ちを味わいます。受けとれば、その「記録」は、消え去っていきます。よって、人が不幸を受け取ることなく、幸せに生きていくには、悪心から為される行いを、自らはしなければよいという帰結になります。

 

 密教では、大日如来の「想い、言葉、行い」には、計り知れない慈悲の働きがあるので「三密(さんみつ)」と名付け、人間の「想い、言葉、行い」は煩悩の塊だから「三業(さんごう)」とし区別しました。そこで、三業を大日如来のように1ミリの悪心もない光の塊にするまで、磨きあげることを修行とします。

 

 密教僧には、その独特の修法が与えられるようですが、私の経験上からお伝えできる修養法として最も良いものは、日々の日常生活で、自分の想いと言葉と行いとに細心の注意を払い、「今、大日如来(神様)ならどう思うのか?」「今、大日如来なら、どのような言葉を使うのか?」「今、大日如来なら、どのように行動するのか?」を考えながら、一瞬、一瞬光を目指して、事に当たり続けることです。自分を俯瞰して観る目を養います。

 

 人は、動物でもあるので、本能を宿します。だから、「食べたい」「寝たい」「子供を宿したい」という欲求をなくすことは不可能です。聖人も、覚者も、哲人もこの動物としての本能を失くすことはなかったでしょう。覚者が問題としてきたものは、本能から派生する「欲」です。

 

 例えば、人は、人から理解されない悲しさを募らせて、怒りとします。怒りは二次的なものです。夫婦喧嘩は、悲しさを怒りにまで膨らませて起こることが多いと思います。膨れたものは、必ず破裂します。破裂させることのないように、理解されない悲しさをそのまま、相手に伝えることが仲良しでいる秘訣かも知れません。

 

 同様に「食べたい、寝たい」といった本能を膨らませ、欲としていきます。欲も二次的なものです。例えば「寝たい」は、もっと快適な家で、もっと広い、もっと環境の良い、もっと眺めのよい贅沢な場所が欲しいと、本能から派生して際限なく膨らませることができます。夢のうちは、楽しいものですが、身の丈を超える前で自制を働かせないと必ず火傷を負っていきます。

 

 欲は、二次的なものですが、人は、欲の媒介物としてお金を求めていきます。自己保存欲求が強い方は、独占欲が強く、お金そのものを求め始めます。同様に、権力そのものを求めます。名誉そのものを求めます。全て我が身可愛さから出ます。

 カルマはあなたの動機によって記録されていくものです。「悪銭身につかず」とあるように、己の欲を満たすことだけで得たお金や、権力や、名誉は腐臭を放ち、周囲の人を幸せにはしませんし、本人も疲弊し、生きがいと喜びを感じる生活からは遠く離れていきます。

 

 そうならないためには、やはり、「何のためにお金が必要か?」「何のために仕事をしているか?」「何のために生まれてきたのか?」を、常に、心に問い続けることが肝要です。

 

 また、カルマの話では、よく過去生で悪いことをしたから、今不幸なのだという考え方をする方々がいます。特に、信者を集めたい宗教家の先生がおっしゃるようなことです。そんなことは、ありません。あなたのこの人生の記録は、プラスマイナスゼロでうスタートし、そしてプラスマイナスゼロで終えていくことでしょう。

 家族に対して、常に不快な想いをさせ、わがままを通し続ければ、老後は孤独に苦しみます。老人介護施設で、誰にも笑顔を向けてもらえず、家族の訪問も少なく、苦々しく、そして、長く寂しい時間を味わって人生を終えていく。これは、過去生の悪業でしょうか?よくよく人生を見つめていきたいものです。

 

 「逆境」についても、記しておきます。

 

 人生には、誰にでも、必ず何もかもがうまく行かない時期が訪れます。それを逆境と呼びます。試練ともいいます。それは、生まれる前に、ご自分で決めてきたシナリオです。自分の愛を深めるために、生まれる前に自らが用意した脚本です。それは決して、あなたが過去生で悪いことをしたから起きるのではありません。だから、そういう時期には、自分の両足で大地に立ち続けます。どんなに辛く暗く長いトンネルであっても、誠実に、笑顔で、前向きに毎日を過ごすのです。あなたの魂は、この時期に逃げることなく立ち向かえば、必ず、がりがりと磨かれていきます。艱難辛苦(かんなんしんく)こそが、あなたの優しさと正義心を磨き上げてくれます。光を信じて、光を求めるのです。何よりも自分を信じるのです。

 

 「善因善果、悪因悪果(ぜんいんぜんか、あくいんあっか)」

 

 原因があって、結果が生まれます。

 あなたの心の田に生まれる悪心の芽は、大きくなる前に摘んでいくのです。そして、あなたの心に生まれる善心の芽を、いっそ習慣にまで育てるのです。一瞬、一瞬が真剣勝負です。人生は、己の汚さ、狡さ(ずるさ)、弱さとの決闘です。

 

 自分にだけは、決して負けるな!

 

 

 

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(11)悟りの風に吹かれて

愛について

 

 私たちは、「愛」を知りたい、深めたい、体現したいと繰り返し生まれてくる命です。「愛」は、ぼんやりとして捉えにくいものですが、あなたの中にある、「良心」そのものです。

 

 良心とは「神」そのものです。神=良心=愛です。愛を別の言葉で伝えると、「慈悲心」となります。これは仏教で重んじられる言葉に当たります。ですが、どれも抽象的な言葉ですので、これだと凡人の私たちには、愛をうまく掴むことが出来ないので、孔子という聖人が、「愛」=「仁義」=とはっきり具体的に示してくれました。

 

 「仁」とは、「人が二人いる」という漢字です。そして、二人は社会の始まりです。だから、「相手」の立場で物事を考える心となり、「思いやり」となりました。そして、「義」は、前述したように、忠義心、恩義心、正義心という言葉に当たります。これは、人をして人たらしめる心のことを指します。

 

 さあ、愛が孔子によって分解されました。これで、愛を知るとは、深めるとは、常に相手の立場で物事を考える心を育てること、そして、忠義心、恩義心、正義心を育んでいくことになります。日本では、昔と違って今現在、「義」を教えることを疎かにしてきてしまっています。

 

 (これは、第二次世界大戦で日本が敗戦したことに起因します。6年半もの間、アメリカに国が完全に占領され、この間、アメリカの徹底した工作活動がありました。日本軍が全て悪いというプロパガンダ自虐史観東京裁判史観)で、国民を洗脳しました。その時から、「義」を見失い、「義」を避け続けてしまっています)

 

 正義心については、前章で触れましたので、ここでは、忠義心と、恩義心に触れておきたいと思います。

 

 「恩義心」は、恩返しを忘れない心です。産み育ててくれた両親、先生や友人、自分を育んでくれた人たち、雇用主、お世話になった方々……

 相手からもう必要ないと言われても、こちらからは、しつこいくらいに感謝をずっと伝えていくことです。感謝の祈りを忘れないことです。

 

 ご先祖様への感謝も大切なことです。あなたまでの命を繋いだご先祖様は、あなたとのご縁がとても深い存在です。子孫の幸せをいつも願ってくれています。ですが、過ぎたるは及ばざるが如しとあるように、先祖供養に執心(しっしん)する必要はありません。手を合わせ、心からの感謝の祈りを捧げる供養(くよう)に勝るものはありません。墓前に行けなくても、墓などなくても悲観する必要はありません。

 

 「忠義心」とは、精神性の序列を重んじる心のことを指します。日本では、社長と社員、先生と生徒、先輩と後輩などの上下の礼節を大切にするといったことで、今も残っています。厳しい部活などでは、「上は絶対」という価値観もあるのだと思います。そこにいじめや暴力さえなければ、若い時代は、一つの勉強だと思えば、これはこれでいいと思います。

 

 ただし、本来、「忠義」の意味は、この人生を与えてくれた、生んでくれた天(神)に感謝して最大限その命を輝かせるということになります。己の天命を自覚し、忠実にそれをはたそうとする心です。

 

 あなたは、何のためにこの世界に生まれてきましたか?

 何のために、その命が与えられましたか?

 

 ただ与えられているわけではないその命を、天の望みを叶えようと、もしくは、天の道具として召(め)してもらおうと全力で生きているでしょうか?

 死んで後悔のない人生は、欲を満たすことにあるのではなく、忠義心を果たしていくことで与えられます。

 

 あなただけに見える、あなたにしか修復出来ない「世界の壊れた部分」が、きっとあるはずです。今は見えなくても、あなたが心の成長を遂げていけば、壊れた世界の一部分が、必ずあなたの目前に立ちはだかってきます。それは、あなたが、何とかしたいと、心がどうしても惹かれてしまう社会問題です。それは、食料問題かもしれません。虐待の問題かもしれません。農業の衰退、貧困の問題、駅前のシャッター通りのこと、温暖化、アトピー、エネルギー、教育……etc

 

 あなたを生み出した大いなる神は、阿弥陀は、光は、あなたに個性(能力)を与えています。あなたの愛が深くなればなるほど、あなたの個性(能力)を磨き上げるために、シンクロニシティを起こしていきます。そした神は、ゆっくりと、あなたの準備を万全に整えて、壊れた世界を修復するための平和の道具として使っていきます。

 

 あなたには「世界を変える力」が本来備わっています。神はあなたの心のうちに住んでいます。そして、あなたのハートに語りかけ、あなたの個性を活かして、あなたの望むユートピアを実現したいと、いつでもあなたを待っています。あなたのハートを開く鍵は、あなたの愛を深めていくことだけです。

 

 哲人ソクラテスの言葉です。

 

 「さあ、汝自身を知れ!」

 

 

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(10)悟りの風に吹かれて

ヨガ

 

 心と体の統一を図ることを、「ヨガ」といいます。

 

 何人ものルーツとなる先生がいらして、派生して流派が生まれ、それらを受け継いだ生徒さんが、それぞれの自国に戻って教室などをされています。皆さんが目にするあの独特のポーズの一つ一つには、それぞれ意味があります。私は、専門家ではありませんので、これ以上はお話しする資格はありませんが、10分程度でも、YouTubeなどの動画を頼りにして、丁寧に教えてくださる先生のお手本通りに体を動かすと、体全体の気が流れ始めることがわかります。また、デトックスが起こるポーズもあり、(吐き気や、咳を催(もよお)します)一日もしくは、半日の間、とてもスッキリ過ごすことが出来ることに気づきました。

 

 長い歴史の中で、受け継がれてきている伝統のヨガのポーズ自体は、おそらく人が頭で作り出したものは少なく、これは想像ですが、「宇宙からの直観」を形にしたものだと思います。だから、肉体レベルでの効果はもちろんのこと、まだ科学的には立証できてない気のレベルでの効果も高いのだろうと考えています。付け加えますが、人間は、肉体と心の体(=気の体、俗にいうオーラ体)を持っています。

 

 現代は、とくに若い人にとって、心と体の統一を図って、活き活きと自己実現のある人生を送っていくためには、とっても誘惑の多い、厳しい時代を迎えていると思います。それは、スマートフォンの普及とゲームの浸透があるからです。今現在、あまりに度を超えてしまい、悪い方に傾いているように見受けられます。

 

 ゲームには、中毒性がありますので、麻薬やタバコに似ています。自制が弱い者は、昼夜逆転した生活に陥りやすい。また、ゲーム中毒の子供たちは、体を使って遊ぶよりも、家の中をもちろん好みます。体と心のバランスをとにかく崩してしまう方向へ行きやすいのが、このゲーム全盛の時代と言えます。

 

 また、現代はとにかく頭でっかちになってしまうような環境です。許容範囲を超える膨大な情報や知識が、クリック一つで手に出来、また目に飛び込んできて、それによって、不必要な不安と恐れとに、心が沸き立てられます。例えば、陰謀論フェイクニュースを鵜呑みにし、呼吸や睡眠ですら浅くしてしまうようなことも気をつけたいことの一つです。

 

 人間は、環境に左右されます。令和の環境下は、「依存」と「不安」に巻き込まれやすい「魔」の巣窟(そうくつ)が広がっていると思って差し支えありません。心と体のバランスをとにかく崩しやすい。それは、大人も子供も変わりません。

 

 一方人間は、環境に左右されるばかりではなく、環境を作ることが出来る偉大な存在です。神はあなたに創造する力を与えています。

あなたが、心身の統一を図り、ご自分の無限の創造性をこの世界に顕現したいのなら、つまり、心の中の宝を発見したいと考えるならば、まずは、マスメディア(テレビや新聞)とゲームやインターネットの情報を遮断する生活を始めてみてください。そうですね、期間は6年間くらいです。過食が体を壊すように、情報過多も心身のバランスが取れない状態を生みます。つまり、感覚が麻痺していて、情報を過食しているとの自覚もありません。

 

 早寝早起き、そして、朝晩の30分の座禅瞑想と、散歩など運動のある毎日の生活。そして、野菜食中心の食事。また、短くてもいいので、心を耕してくれるような伝統のある宗教書や古今東西哲学書、また偉人伝や歴史などのジャンルの本を、毎日少しずつでも読み続けていくとよいでしょう。その間、新聞もテレビも、ネットニュースも要りませんし、求めないような生活を送ることです。数ヶ月ほど続ければ、いかに要らぬ情報に左右される生活を送っていたのかに気づけるはずです。

 

 今の時代は、必要なニュースは、あなたが求めなくても、嫌でもスマートフォンの端っこから、ラジオから、食堂のテレビから、また、会社の同僚との会話から入ってきます、それ以上は生きていく上で、さほど必要ないことを、まずは体験してください。内面と向きあう静かな生活を数年過ごせば、自分にとって相応しいニュースなどの情報量がつくづくわかってきます。食事も粗食が一番ですが、情報も粗食が最善なのです。

 

 ただし、周囲からは、まるで出家僧のように見えてしまうあなたの生活に対して、文句や、あげつらいや、嫌味を言われることが増えるでしょう。ですが、そうした生活を送らなければいけないほど、現代社会はバランスの中心点を見失ってしまっています。

 

 繰り返しになりますが、ヨガは心身の統一です。統一を図るためには、偏りを是正する修養の季節が必要です。一日を座禅に始め、一日を座禅に終える修養の季節は、体からはみ出た心、そして体に満たない心が徐々にバランス良く整えられていく貴重な蘇りの時間。

 

 何度も言いますが、人生は長いようで短い。その短い人生を最大限に輝かすためにも、山に籠(こも)ることなく、日常の生活にフルスイングし続けながら、己の収容期間を、自らの意志で用意する必要があります。

 

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(9)悟りの風に吹かれて

立ち顕(あらわ)れしもの

 

 あなたは、「生きたい」と思って生まれてきました。天は、あなたを「生かしたい」と思って産み落としました。魂は、経験する存在です。何度も生まれ変わってはあらゆる経験を重ねていきます。

 

 心は、本来は神様と繋がっているトンネルです。何度も人生を重ねるうちに、その入口や出口は厚い土砂で覆われてしまっています。

 

 正しく生きるとは、まずは土砂を除く努力を始めることです。

 豊かに生きるとは、トンネル自体を大きく頑丈にしてその交通量を増やすことです。

 

 トンネルの開通に必要なことは、たった一つで、あなたの精神性を高めることに尽きます。癒しや気づきは後からついてきます。また、トンネル大きく頑丈にするには、コンフォートゾーンに身を置かず、常にチャレンジをし、大きな自分に出会い続けるより他に方法はありません。

 

 精神は生き物です。それを高めるには、必ず人の役に立っていくのだという強い菩提心を持って、娑婆(しゃば)の世界で逃げずに生き抜くことと、そして座禅瞑想を日夜行うことです。

 

 アダムから始まり、キリストで終える大きな旅が、魂の旅路です。

 

 アダムとイブは、食べてはいけないという神の言いつけを破り、善悪の知識の木の実を齧り(かじり)ました。自分の意志で「生きたい」と望んだのです。そして「魂の故郷」から離れます。そこから離れて生きることは、素晴らしい体験であると同時に、あなたに不安と恐れを生み出させました。それが、「エゴ(edge of god)」の正体です。故郷を離れたばかりのあなたは、まだ幼い子供です。何を見るにも、何をするにも、不安や恐れがあなたに襲い掛かります。

 

 それでも、あなたは、勇気を振り絞って、一つ一つのことに立ち向かっていきます。そして、時に誘惑に遭い、欲に負け、挫折や失敗を経験していきます。また、人を憎み、人を害し、人を殺め、修羅となり、鬼となることもあったでしょう。また、人に憎まれ、人に害され、人に殺され、神の存在を笑い、神の存在を否定し、業火に焼かれ、終わることのない苦しみを味わうこともあったでしょう。

 

 あなたの魂の道程(みちのり)は、たった今も続いています。あなたに降りかかるあらゆる体験を、慈悲と正義の心へと変えていく戦いの途上にいます。

 

 あなたの魂の旅路の行く末には、先人である優しく気高いキリストが、両手を広げてあなたを待ち受けています。あなたの旅の終わりを褒め称え、その栄光に祝福を与えるためにです。

 

 彼(キリスト)は、「慈悲と正義」を体に纏(まと)い、人類という友のために死んでいきました。アダムという、この世界に生まれ落ちた一つの魂は、わがままで幼稚な魂であったのに、立派な成人へと変貌を遂げ、我が子でも、我が家族のためでもなく、隣人のために涙を流し、その命を他人に呉(く)れてやれるまで、優しい心を育て切っていました。そして、人々の業火を引き受け、その身を十字架に捧げ、魂の故郷へと還(かえ)っていきました。

 あなたも私も魂の故郷へいつか還っていきます。

 その時が来れば、あなたも私も必ず隣人のために命を捧げています。

 

 この地球上では、精神の年齢が皆違います。大人の顔をした子供もいれば、子供の顔をした大人がいます。自己中心に生きるものから、他者中心に生きるものが住んでいます。だから、争いが絶えません。みんなが大人なら、みんながキリスト意識にまで自分を高めていれば、憎しみ合い、殺し合うこともなく、いじめや虐待などもなく、地球環境がここまで汚れることもありません。

 

 戦争を無くせ、温暖化を無くせ、核兵器を無くせ、貧困を無くせ、テロを無くせ、感染症を無くせ、原発を無くせ……まったくその通りですよね。

 

 でも、きっと100年後も1000年後もそれらは無くなりません。これら全て人間が無くしてしまいたいものは、誰のせいでもなく、一人一人のなかに巣食う人間のエゴから生まれてきているからです。

 

 想像してみてください。世界中の国の代表が集まった中で、誰かが「明日は世界中のみんなでゴミ拾いをしようよ。あらゆる技術も機械も、総動員させてさ!」と提案したら、どんな結果が待っていると思いますか?

 

 一体、どれくらいの人がゴミ拾いに参加してくれるでしょうか?

 どれだけの国が参加してくれると思いますか?

 あなたは参加してくれますか?

 

 80億人全ての人が足並みを揃えて、誰も文句も言わず、笑顔でゴミ拾いをしている日が、きっと世界平和が実現できている日ですよね。

 

1000年後も世界は変わっていないと先ほど書いてしまいましたが、もちろん私も、いつかは誰もが望むユートピアに心からなって欲しいと心から思っています。目を覆うようなニュースばかりですが、決して諦めているわけではありません。ただの夢想家でもありません。

 

 そのために毎日を歩こうと決めています。私に出来ることはといえば、一人、一人に「求道の種」を手渡して歩くことです。それを多くの方々の心の中に植えてもらって、隣人のために一緒に涙を流せる友を増やしていくことです。世界平和や笑顔あふれる安心に満ちた社会は、そう「天国」は、あなたの心の開発にあるからです。

 

 ならば、友よ、一緒に歩いてくれませんか?

 

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(8)悟りの風に吹かれて

師なるもの

 

木が朽ちれば、そこに根を張る若木があります。大木であれば、たくさんの若木がその朽ちた幹を踏んで育つことでしょう。どの世界にも、「心と技」を受け渡してくれる先生がいます。偉大な師ほど、自分を踏みつけて伸びていく後輩を、いつも待ち望んでいるものです。また、そのような師だからこそ、たくさんの優秀な生徒を、育て切ることが出来ます。

 

 もっとも駄目な先生は、生徒の卒業を喜ばず、ずっと依存させるように仕向ける先生です。依存させると金品などを運んでくれるからですが、魔境に堕ちた先生は確信犯となって、そのように生徒を囲(かこ)っていきます。

 

 麻原彰晃というオウム真理教という教団を作った犯罪者がいました。彼と、その弟子と呼ばれ可愛がられた若者たちは、「共依存関係」です。おそらく、心に傷のある若者が、その傷を舐めてくれる先生にどっぷりはまったケースだったのでしょう。

 

 共依存とは、例えば、尽くされる男と、尽くすだけの女性のようなものです。

 例えば、頼られることだけが生き甲斐の上司と、自分では何も決められない部下です。

 支配者と被支配者とでワンセットです。

 蓋を開けてみれば、卑屈さを舐め合って慰めあうだけの関係です。いつまでも日の目を見ることはありません。

 

 師は、成長を促す「肥やし」ですが、共依存関係は、成長を止める「毒」です。教えを請う者は、頼り切って奉るのではなく、敬して盗み切るような気構えがいいかと思います。

 

 道元禅師は、著書『学道用心集』のなかで、「正師を得ざれば、学せざるに如かず」と説いています。「命について学ぶのならば、正しい先生でなければ、学ばない方がましだ」という意味です。人の一生は長いようで短いです。この短い一生で、自分の中にある宝を発見することが出来るかどうかは、あなたが学びを請い願う「師」の力量にも大きく関係してくるでしょう。付け加えますが、たとえ、生きる師に出会えなくてもがっかりすることはありません。古人の書も、素晴らしい師となりえるからです。

 

 しかし出来得るなら、やっぱり正しい実践者と出会い、お付き合いすることをお勧めします。本だけでは全く気づけなかった己への理解が進むことでしょう。あなたが本来何者であるのか?という根本的な宿題を解きたいのならば、それが一番の近道かと思います。私もそうでした。そして、私の場合は、決して一人に拘(こだわ)らず、何人もの先生を師事してきました。それがよかったと、振り返ってみればそう思います。この広い世界には、沢山の良い先生が必ずいらっしゃるはずですから、あなたが発見して、疑問点を質問責めにすればいいと思います。誠実に、そして、オープンに情報を開示してくれるような方なら信頼が置けるのではないでしょうか?

 

 いい先生を見抜くために、大切なことを書いておきたいと思います。

 

 あなたが、自分の中に眠る「仏」を目覚めさせるためには、いくつかの条件をクリアしなければいけません。例えばそれは、これまでの人生で抱えた「心の傷」を癒していくこと。そしてまた、これまでの人生で背負い込んだ「こだわり」を手放していく事です。こだわりとは、歪んだ価値観のことです。魂は、輪廻を重ねますから、「心の傷」も、そして「こだわり」も、この人生で身につけたものだけではなく、過去世に由来するものも存在します。

 

 仏教では、それらをとくに区別する事なく、一括り(ひとくくり)に「執着」と名付けています。執着があると、物事を正しく思い、正しく見ることが出来ません。視野が狭いとも、色眼鏡をかけている状態ともいえます。「覚者」(かくしゃ)とは、その「執着のない状態になった人」と云うことが出来るかと思います。

 

 さて、正師とは、覚者であることが第一条件です。つまり、物事を真っ直ぐに見ることのできる人の事です。特に人は、己の「こだわり」という執着に気づくことが大変難しい。自分が、どのような「こだわり」を持っているのか考えてみても、なかなか思いつかないものです。そして、例え気づいているとしても今度は手放すことが出来ません。

 特に、何度も輪廻転生を重ねて、ぎゅっと握りしめて手放すことをしない「魂のクセ」とも呼べる根強い執着を手放すことは至難の技です。とても難易度が高い。

 

 力量ある正師とは、その「こだわり」を見抜き、そしてその歪みを相手に伝え、時に叱り飛ばし、時に諄々(じゅんじゅん)と説いて、相手がその「こだわり」を手放すことを手伝ってくれるような方です。いづれにしても、求めていれば、あなたに応じた先生が現れることだと思います。素晴らしい出逢いに導かれますように。

 

 弟子にとって、師とは踏んで肥やしとしていくものです。素晴らしい先生であれば、真理を求め飢え渇いている若者にとって、己がただ一塊(いっかい)の養分に過ぎないことをよく知っています。

 

 なぜなら、「真理」は決して不変なものではなく、後人によって、時代を経ながら、少しずつ進化されて受け継がれていくからです。進化のない真理など偽物だとよく理解しているからです。

 

 あなたを待っている先生が必ずいます。ゆっくりでいい。歩みを止めることなく、あなたが真実を求め続けることです。出会いまでの時が、ゆっくりゆっくりと満ちていくでしょう。

 

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